亡羊の嘆

【漢字】亡羊の嘆
【読み】ぼうようのたん
【意味】逃亡した羊を追いかけて、分かれ道で見失って嘆くことから、学問の道が多すぎて迷うこと。
【例文1】選択肢が広く亡羊の嘆だ。
【例文2】県内進学か県外進学か亡羊の嘆だ。
【例文3】亡羊の嘆だったが、自分の選択は間違えてはいなかった。

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「亡羊の嘆」となってしまったときは

日本は裕福な時代になり、少子化の影響も手伝って大学に進学する人間も多くなりました。
それによって将来の選択肢が増えることは良いことですが、選択肢が多すぎることも考えものです。
とくに情報化社会の現代ではさまざま情報があふれ、知らなくてよい情報まで知ってしまうこともあります。
自分に必要な情報を自分で判断して選ぶ時代になったことで選択肢は無数に広がり、それは行動の選択肢を広げることにもなりましたが、考えすぎて「亡羊の嘆」となってしまう人もいるのではと感じています。
人は考えすぎてしまうと不安なことが多く沸き起こり、臆病になり動けなくなってしまうこともあります。
いろんな情報やそれによって考えすぎる自分に振り回されてしまう現代だからこそ、あえて考えないことも大切だと感じています。
自分を見失ったとき、最も知るべきなのは氾濫するさまざまな情報よりも自分自身のことではないのかと思ったからです。
将来の事を考えて不安にさいなまれたり、過去のことを考えて後悔にむしばまれるよりも、今を見つめることが大事なのではないでしょうか。

人生も「亡羊の嘆」

「亡羊の嘆」は「列子・説符」にある中国の戦国時代、思想家・楊朱の隣家から1匹の羊が逃げ出し大勢の者が追いかけたが道がいくつにも分かれていたために取り逃がしてしまったことに対して楊朱が「学問も同じようにさまざまなものに分かれすぎていてそれぞれ根本の部分は同じなのにそれを忘れ理解ができなくなっている」と嘆いたという故事に基づいています。学問の道は多方面に分かれているので真理に到達するのは難しいということが転じて進路や方針がいくつもあって選択に迷うことを言います。以前、労務関係の勉強をしていたときに同じように感じたことがあります。労働法も多岐にわたっていて勉強を始めたころは混乱だらけでした。とくに年金法は改正に改正を重ねているので勉強すればするほどわからなくなるといった具合でした。人生においても選択の連続です。どの学校に進学するか、どの学部を選ぶか、どの会社の入社試験を受けるか、どの会社に就職するのかとずっとたくさんの選択肢の中から迷いながらも選んできています。何かを決断する時に選択肢が多いほうが良いことのように思いますが選べないほどたくさんの選択肢があると困ってしまいます。たくさんの選択肢の中からなるべく良い結果のでるものを選択したいものです。

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