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手作り言葉辞典について

手作り言葉辞典では、ユーザーが疑問に思って検索してきそうな言葉の を載せています。 検索して調べてきそうな言葉とは、ここでは「ことわざ」「慣用句」「四字熟語」「故事成語」の4つになります。 それぞれの意味は下記の通りです。 古くから言い伝えられてきた、教訓または風刺の意味を含んだ短い言葉。生活体験から きた社会常識を示すものが多い。 二語以上の単語が結合して、それ全体である特定の意味を表すもの。 漢字4字で構成される熟語。 故事をもとにしてできた言葉。特に、中国の故事からできた語。 Powered by 手作り言葉辞典

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露命を繋ぐ

【漢字】露命を繋ぐ 【読み】ろめいをつなぐ 【意味】何とかかろうじて生活している状態。 【例文】少ない年金で露命を繋ぐ。 「露命を繋ぐ」とは「ろめいをつなぐ」と読みますが、このことわざの意味はなんとか細々と暮らしていくという意味ですね。 イメージ的には、全く余裕のない暮らしで、海外旅行に行ったり、高級車に乗り回したり、ステキなレストランで外食をするなどという派手なことを一切せずに、ご飯に卵を乗せしょう油をかけた卵かけご飯がご馳走だと感じるような暮らしです。 とりあえず、なんとか生きて行けるけれどやっと命を保っているというような状態が露命を繋ぐということなんですね。 しかし、この質素に生きるということはお金に余裕があったとしてもやるべきことなのではないかと私は思います。 人は少しでも稼げるようになると高級ブランドバッグやブランド物の時計を買いあさり、高級車を乗り回し、海外旅行に出かけてしまうものですよね。 確かに、お金が腐るほどあるような本物のスーパーリッチなお金持ちはそのような暮らしでもいいと思います。 でも、年収が1千万円ぐらいであれば、もしもの時や老後に備えて質素に暮らした方がいいと思います。 というのも、ちょっとしたお金持ちの経営者が経営が傾き、どん底の生活を強いられるという状況は身近でわりとあります。 そんな話を聞くと、なぜ、稼いでいた時に、この人は貯蓄しておかなかったのだろうかと他人事ながら、思ってしまいます。 世界の大富豪でもない限りは多少稼いでも、露命を繋ぐような生活で質素に生きて、貯蓄をしたほうが私は断然、利口だと感じています。

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論をまたない

【漢字】論をまたない 【読み】ろんをまたない 【意味】議論するまでもなく明らかである。 【例文1】彼女の言っていることは論をまたない。 【例文2】彼の言動は論をまたない却下だ。 【例文3】論をまたないことは明らかだ。 正確には論を俟たないと書きます。言うまでもない、論じるまでもなく明らかなことの意味です。 言うまでもないこと、論じるまでもなく明らかなこと、だからといってその論が無駄なのかというと必ずしもそういったわけではないと思います。誰しもがわかっていることだからこそ、再びそれを口にすることが意味を持ってくることもあります。しかし、やはりそれをくどく感じてしまう方もいるでしょう。要は言葉や論は塩梅なのです。 無駄な一言やつい付け足してしまった論など、今までの人生で数えきれないほどあります。その都度、反省してきましたが、それでも再び口から無駄な言葉が出てきてしまいます。しかし、きっと人間の発する言葉はそういった無駄があるからこそ意味を帯びてくるのでしょう。無駄のない会話に価値はあっても、感情は動きません。この無駄こそが人間と人間の対話で生まれる感情なのです。 論をまたない、そういって人の言葉に耳を傾けないのは簡単にできます。それでも、たまにはその無駄なものを感じてみてはいかがでしょうか。

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論より証拠

【漢字】論より証拠 【読み】ろんよりしょうこ 【意味】あれこれ討論するよりも証拠がある方が説得力がある。 【例文1】論より証拠を持ってこい。 【例文2】信用するには論より証拠だ。 【例文3】多数の目撃証言より防犯カメラが論より証拠。 「論より証拠」は、憶測の発言よりも決定的な証拠を出すほうが物事が上手く行くことを意味します。議論に終止符を打つためにも証拠が必要ですし、この言葉は過去も現在でも十分通用する意味を持つ思いますね。 特にインターネットを見ているとそう感じます。ネットの世界は匿名性が多く、議論をするにもペンネームを使用しますから正確な情報見抜くには、説得力のある言葉や証拠となる根拠が必要となるからです。 空想だけで制作した情報には説得力はありませんし、面白いものではありませんよね。実際に体験した時の様子を映した画像を一枚記載するだけで信憑性は格段にあがり、「論より証拠」の意味合いに通じるものを感じます。 また、質が高くて有益な情報を記載するホームページを見ると、信頼できる情報を載せていることが多いです。さらに口先だけでなく、実際に疑問に感じた場所に行ったりするなど、誰も文句を言えない状況を作っていることも特徴です。 論より証拠はインターネット社会で大切な要素だと私は思います。情報の取捨選択にも「論より証拠」を基準に考えるべきではないでしょうか。時代が進んでも意味が通じる優秀な言葉で、これからも使い続けられていくことわざでしょう。

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論陣を張る

【漢字】論陣を張る 【読み】ろんじんをはる 【意味】論理を構成して議論する。 【例文1】証拠書類を揃えて論陣を張る。 【例文2】会議で堂々と論陣を張る。 【例文3】わかりやすく論陣を張る。 話の論点をうまく組み立てて、議論を展開する事です。 使い方としては「評論家にひるむ事なく、論陣を張る」という具合です。 様々な事に精通している人が出来そうな振る舞いではないかと思います。基本、教養の足りない方には難しい事ですし、また頭の回転が良い人でないと出来そうにない行動であります。そもそも論陣という言葉が普段あまり使用しない用語であり、意味が「論の組み立て」すなわち話の道筋を上手に考えられる事です。それを用い、その筋の達人と互角に議論をするのだから、それはもはやその人自身も達人の域にいられる訳ですね。 ちなみに、「論陣を張る」がいつの間にか「論戦を張る」と使う方が多くなったらしく、論戦は「張る」のではなく「交わす」が正しい使い方です。話を戻すと達人同士の議論なら、はたして凡人にその話の内容や議論の正しい着地点がどこであるかなど当人同士しかわらないのではないかと不安になり、どうしても置いてきぼり感が否めません。それほど論陣を張るは、どこか頂上決戦の様相を想像してしまいます。自分よりも明らかに知識が豊富な方に議論を挑むのは中々出来る事ではないし、ましてや互角に渡り合うなど尋常な事ではありません。 「論陣を張る」というのは論理を組み立てて議論をする。弁論を戦わす構えをするという意味です。この言葉で思い起されるのは、幕末の長州藩にあった、松下村塾です。松下村塾は吉田松陰の叔父の玉木文之進が開いた私塾で、武士の子息しか入れなかった、藩校とは違い、学問をしたい者は農民の子であっても、町民の子であっても誰でも受け入れました。吉田松陰がそこで実際に教えたのは2年半ほどだったと言われていますが、その影響力は計りしれないものでした。松陰の教えは勤皇思想を主軸として、兵法、史学、儒学、孟子など多岐に渡っていたものの、一方的に授業をするのではなく、対話を重視したと言われています。時には、一緒に農作業をするなど、考えたことを実行することが大切だという教えを体現しました。NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」で松下村塾が出ていた時も、随分と若者たちが議論していることに驚きました。現在でいうところのディベートです。私塾といえども学校なので、どうしても先生が中央で、講義をし塾生は粛々とメモを取るというような方式を思い描いていたので、そのやり方は目からウロコ状態でした。塾生同志が「論陣を張り」主張することで、主軸となるものがはっきりとし、自分が何を行うべきかを考え使命として行動したのが、松下村塾の塾生でした。高杉晋作、日下玄瑞、伊藤博文など優秀な人材を輩出したのも頷けます。

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論語読みの論語知らず

【漢字】論語読みの論語知らず 【読み】ろんごよみのろんごしらず 【意味】読んで理解はできたが、それを活かして実行できない。 【例文1】語るだけでは論語読みの論語知らずで説得力がない。 【例文2】学んだ分野に就かないのは論語読みの論語知らず。 【例文3】本に頼って経験がなく、論語読みの論語知らず。 「論語読みの論語知らず」とは「書物の上のことを理解するばかりで実行し得ない人のこと」です。論語は中国春秋時代の儒家、孔子の言葉を弟子たちが、彼の没後にまとめたもので、「子、曰く(し、のたまわく)」(孔子がおっしゃることには)という一文から始まることでも有名です。論語は江戸時代の諸藩に置かれていた、藩校という藩の子どもを対象とした学問所で、積極的に取り入れられていた教材のひとつです。その藩校の入学試験は素読吟味と呼ばれ、四書(儒学の基本文献。「大学」「中庸」「論語」「孟子」)のうち、先生が抜粋した漢文を日本語訳で3回読み上げるものでした。内容の解釈はともかく、読み間違い、忘れて思い出せないことの多少で合否が決まったそうです。藩校の入学試験に合格しても、次から次へと試験があり、落第した者には厳罰が課せられたそうです。藩校では武芸も奨励され、7、8歳で入学してまずはじめに文を習い、後に武芸を学び、14、15歳から20歳くらいで卒業するというかんじでした。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸として剣術等の各種武術などが加えられました。藩校へ入るのですら、論語が読めなくてはいけませんでしたから大変でした。ちなみに小学校の庭に置かれている二宮尊徳の像が開いているのは大学という書物だそうです。

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論功行賞

【漢字】論功行賞 【読み】ろんこうこうしょう 【意味】功績に応じた賞を贈る。 【例文1】業績からみると論功行賞は彼が適任だ。 【例文2】今月の論功行賞は売上1位の彼女に間違いない。 【例文3】論功行賞を頂いた。 論功行賞とは、功績や手柄を調べて、それに見合った褒美を与えることを言います。論功は功績や手柄の程度を議論して褒美を決めること、行賞は褒美を与えることを意味します。特に戦国時代は、その戦いで大きな手柄(敵兵を何人殺したとか、敵将の首を取ったとか等々)に対して、金品や馬、土地や官位などが与えられました。 現代においては、大きな手柄(大きな契約を取ったとか、会社の名を上げるような仕事をした等)を上げので、即役職に付けるということは、あまりありません。なぜなら、役職とは功績を挙げることはもちろんですが、もうひとつ大変大切な事があるからです。それは、自分の部下の管理です。これができなくては現代社会において管理職にはつけません。TVのニュースなどを見ていると、この人事は露骨な論功行賞ではないかなどという言葉を聞くことがあります。これは、たった一つの功績で役職に就いたが、その人には部下の管理能力がないのではないかというような意味が含まれています。 確かに、大きな功績を挙げた場合には、褒美を上げることは悪いことではありません。他の人たちのやる気を起こさせる力にもなることでしょう。ですから、褒美は地位ではなく、賞金等が良いのかもしれません。

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呂律が回らない

【漢字】呂律が回らない 【読み】ろれつがまわらない 【意味】舌を動かせず、うまくしゃべれない様子。 【例文1】酔っ払って呂律が回らない。 【例文2】覚せい剤で現行逮捕した時は呂律が回らない様子だった。 【例文3】麻酔が切れて呂律が回らない。 私の身近な人でも以前はそういう人がいました。 お酒が抜けていけば、自然と改善していきますが、中にはそうではないもいます。何らかの病気や薬の副作用で呂律が回らなくなってしまうこともあります。 こういう場合はやはり医療機関で適切な治療を受ける必要があります。 私は今までお酒を飲んで、意識がなくなる直前までは行ったことがありますが、その時も呂律は回っていたと思います。 もしかしたら周りの人からは呂律が回らないと思われていたかもしれません。 確かに意識はしっかりしているのですが、目の位置から下の体は全てアルコールが回っているような感じでした。 その為、まっすぐに歩こうと思っていても歩くことができませんでした。 今では健康を考えてそのようなことはなくなりました。 また、呂律が回らなくなるまで飲むような飲み方をする人もいなくなりました。 呂律が回らない程酔って焦ったことが一度だけあります。 もう十何年も昔、学生時代の事です。 元々お酒には弱かったので、飲み会などで無理して飲酒をする事はありませんでした。 大学生になったからといって必要以上にはしゃいでバカな飲み方をしようとは思いませんでしたし、そもそもお酒の味自体が苦くて不味いもの、という認識しかなかったので、乾杯の時にビールに少し口をつけるだけで、あとはジュースかウーロン茶、というのが常でした。 その習慣が破られたのが、サークルのOGたちとの女性だけの飲み会です。 女性なので、みんなビールや焼酎、日本酒はあまり頼まず、色々なカクテルを沢山注文してみんなで楽しみました。 これがいけなかったのです。お酒は苦くて不味いもの、という先入観を覆す口当たりの良さ、美味しさに夢中になり、ついつい 杯を重ねてしまいました。当時はカクテルのアルコール度数がとても高い事すら知らない程無知だったのです。 当然酔い潰れ、呂律が回らなくなりました。視界が水玉模様でいっぱいになり、焦った私は周りの人に助けを求めましたが、 呂律が回らないため何をいっているかわかってもらえず大変でした。やっと介抱してもらい、無事酔いは覚めましたが、 呂律が回らず言いたいことが伝わらない怖さが身に沁みました。 それからはカクテルなどの甘いお酒には特に注意して、飲み過ぎないよう気をつけており、 あの時の呂律が回らなくなるほど酔ってしまった経験は、良い勉強になりました。

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露命をつなぐ

【漢字】露命をつなぐ 【読み】ろめいをつなぐ 【意味】露命とははかない命のことで、かろうじて生活ができている状態。 【例文1】1日1食の節約生活で露命をつなぐ。 【例文2】働いても働いても露命をつなぐ毎日だ。 【例文3】日雇いで露命をつなぐ。 紆余曲折というほどの難事を乗り越えたわけでもなく、募集に運よく引っかかってそのまま臨時雇われが長期雇われになりました。 特に働きが良かったからではなく、再び募集して教育を施すことが面倒だったのが大きな理由と思われます。 下働きは相変わらず下働きのままで、給料も働きに相応に低いままで不満はあっても、それを理由に今の仕事を辞めようとは思いません。 今のような世の中で、次の仕事が見つかる確証もなく辞表を書けるようなチャレンジャーは高確率で路頭に迷うとしか思えないからです。 パチンコ程度の賭け事には手を出すが、人生丸ごとまで行かなくても直近の収入を賭けてまで自由に生きる気概など既にありません。 そこそこに失敗や挫折を繰り返せば、多少馬鹿でも危険には近寄らなくなるという事です。 大成功するような人間は、その辺を上手く見極め、運すらも味方にして成功だけを積み上げていくのでしょうか。 地道な努力をしてみても、才能のない人間が得られる報酬は露命をつなぐ程度にしかならないのは何故でしょう。 年金やら税金やら保険料で少ない給料はさらに削り取られ、仕事を辞めたら生きるのを止めなければならないくらいに切迫しています。 最近ではパチンコで遊ぶような金もなく、最後の希望のロトくじすら買うのを止めようかと思っているのです。

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路頭に迷う

【漢字】路頭に迷う 【読み】ろとうにまよう 【意味】生活に困って当てもなく歩き回る。 【例文1】今倒産すると路頭に迷う事になる。 【例文2】路頭に迷いホームレス生活を送る。 【例文3】一文無しになり路頭に迷う。 会社が倒産したり、何かの理由で路頭に迷う形になってしまう方がいます。一文なしの状態で希望の見えないなかで、これから一体どうやって生活していくか絶望を感じます。 言葉は悪いですが、そうした労働者を好んで登場させる映画監督がフィンランドにいます。アキ・カウリスマキという監督で、カウリスマキ監督が撮る映画は、特別な権力を持つ方や成功者として贅沢三昧をする人物はあまり登場しません。主人公は冴えないスーパーマーケットの警備員だったりと、一般市民の目線で描いていることが特徴です。 多くの作品では、努めていた会社が不況により倒産したり、暴行された影響で記憶を失ってしまいホームレスのように路頭に迷う登場人物もいます。また素朴なキャラクターとセリフ回しが魅力的で、貧乏で絶望的な状況でも希望が見え隠れする演出も好感が持てる作風ですね。 監督の優しい眼差しで写しだされた世界は、一定のリズムで描かれていますから、人物や動物、建物も平行線を保つ不思議な世界観です。世界中をみても、今にも路頭に迷いそうな人間を主人公にする映画監督は滅多に存在しないのではないでしょうか。 カウリスマキ監督はアンチハリウッドだそうで、作風からもなぜハリウッド映画を好きではないのかが理解できますね。

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六根清浄

【漢字】六根清浄 【読み】ろっこんせいじょう 【意味】眼根(視覚)・耳根(聴覚)・鼻根(嗅覚)・舌根(味覚)・身根(触覚)・ 意根の六つの感覚から生じる迷いを修行して清らかになる。 【例文1】川のせせらぎ音は六根清浄になる。 【例文2】疲れた身体を癒しに六根清浄の旅に出る。 【例文3】六根清浄を求めて滝に修行に出る。 恥ずかしながら私が六根清浄という言葉を知ったのはつい最近のことです。某深夜アニメの会話で使われていたのですが、最初はちゃんと聞き取れず、何て言ってるんだろうと思っていたのですが、その後六根清浄と言っていることが判明し、ファンの間でちょっとした話題になったのでした。六根とは、視覚、聴覚などの五感にいわゆる第六感のスピリチュアルな感覚を含めたものだそうです。それらの六根を清浄にするとは、つまり欲や汚れをしりぞける事で、人の目指すべき地点へ赴くことができるという意味なのです。 なんでも厳しい道のりを要する登山の際に「六根清浄! 六根清浄!」と掛け声をかけていたのが、音が変化して「どっこいしょ」になったのだそうですね。私は椅子から立ち上がる時についつい「よっこいしょ」って言ってしまいがちで、オバサン化していく自分に愕然としたりするのですが、よっこいしょも六根清浄の音が変化したという説もあります。つまり、私は知らず知らずの中に六根清浄を唱えていたというわけです。なんという尊いつぶやきだったのでしょう。むしろ自分を褒めてあげるべきではありませんか。という程のいい言い訳にすがってしまうのでは、まだまだ真の六根清浄には程遠いのでしょうね。

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盧生の夢

【漢字】盧生の夢 【読み】ろせいのゆめ 【意味】人の人生ははかないものである。 【例文1】多店舗展開した飲食業も今や皿洗いのバイトで盧生の夢。 【例文2】経営がうまくいかず盧生の夢だ。 【例文3】孤独で盧生の夢だ。 「盧生の夢」は「邯鄲の夢」、「邯鄲の枕」とも言われます。「人の世の栄枯盛衰のはかないこと」を示しています。これは李泌の「枕中記」という話に出てくる主人公の名前が盧生。その盧生という青年が都で一旗あげようと田舎から邯鄲という都市(今の中国河北省南部)を目指します。疲れたので少し休もうと茶店に入ったところ、そこで出会った老人からマクラを貸してもらって眠ってしまいます。枕の中に誘われるように眠りについた盧生は夢の中で次第に出世し、地位も名誉も財産も持ち、美しい妻や5人の子どもに囲まれ、大きな邸宅に住むという成功物語を見ていました。が、ふいに誰かが自分を呼ぶ声が聞こえ、その声で若者は目を覚まします。その途端、今まで見ていた何もかもが消えうせ、みすぼらしい身なりで元のままの自分がいました。盧生は驚きましたが、老人は盧生が見ていたものすべてをわかっていました。盧生は自分が今見ていた夢は、ただ粟が煮えるまで間のことにすぎなかったのかと、彼は自分の抱いていた夢のはかなさに気がつき、邯鄲に行くのをやめて故郷に戻ったという話から派生した言葉なのです。このお話も高校生の古典の教材に取り上げられる、オーソドックスな話なのでご存知の方も多いと思います。

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禄を食む

【漢字】禄を食む 【読み】ろくをはむ 【意味】給料によって生計を立てている。 【例文1】人の生活はみな禄を食む。 【例文2】職に就いて禄を食む。 【例文3】フリーターで禄を食む。 禄とは俸禄のことで言わば給料のことで、「禄を食む」とは会社などの組織に所属して給金をもらって生活することです。 いかにも、働かせてもらっている、給料をもらえることで生活できている、感謝しています、生涯忠誠を誓いますと連なりそうです。 大抵の場合、働いた分だけの給料を受け取っているのですから、会社のために尽力しますとか忠誠を尽くしますなど言う必要も無いはずです。 逆に会社を儲けさせてやっているのだから感謝しろと言い出す強者も出てきそうなものですが、精々それは冗談に留まります。 上司が存在し、上司の上にはさらに幹部や経営陣などのお偉いさんが存在するという命令系統がどの組織にもあります。 その結果、雇われている人間は下、雇っている人間が上という感覚が自然に植えつけられてる気がします。 仕事を円滑に処理するために命令に従うことを受け入れただけのはずが、社会的な地位にすり替わっている現象は少し不思議です。 それとも今尚封建制度は継続していて、奉公とか忠義が生きていくうえで必要なのでしょうか。 いや逆に全ては演技で、偉そうにしている人に全ての責任をおっ被せて働かせるために頭を下げているだけなのか。 だとしたなら、役者顔負けのすごい演技力です。

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禄を盗む

【漢字】禄を盗む 【読み】ろくをぬすむ 【意味】収入の割には実績や功績が伴っていない。 【例文1】禄を盗む議員は辞職願いたい。 【例文2】私的接待で禄を盗む。 【例文3】コネ入社で禄を盗む。 毎月受け取る給料に見合うだけの働きを全ての人が出来ているかと問えば疑問があります。 上司の指示通りに動いても、その働きが給料と同等がそれ以上の利益を出せていないと会社は破綻しかねません。 それでも帳尻があって会社が潰れることなく存続しているのは理由があるはずです。 働きが悪い人の分を覆い隠すように給料以上の働きをしている方々が居られるのでしょうか。 精々人並み、失敗などを含めれば人並み以下程度の働きしか出来ない身としては申し訳ないくらいです。 そのような人は会社の中に存在するのかと探してみても、何故か見つけるには至りません。 かなり昔の話ですが、バイトで運送会社の仕事をしていたときに取引先との人件費について書かれた書類を目にすることがありました。 その日の日給は7,000円程度だったのですが、人件費として相手側に請求していた額が一律に三万円という信じられない金額です。 仕事の内容は、持ち運ぶのに3人は必要な大型機材をトラックで運送し、搬入口から10メートルほど移動するだけでした。 階段など多少の高低差はありましたが、トラックに同乗している以外の実働時間は30分以下という禄を盗むが如き働きしかしていません。 いくら労働者の仕事に責任を請負うにしても法外すぎる請求金額に、人材派遣するだけでどれだけ儲かるんだとしばらく呆然としたものです。 結局のところ、労働者どころか会社が働き以上の対価を受け取っているという事実に社会の歪んだシワ寄せを痛感しました。 私達は働く中でお給料を頂く訳ですが、労働者はその賃金に対して仕事が割に合わないと言う事をよく口にすると思います。 そして少し目線を変えて企業側の立場からするとお給料に見合わない働き方つまり禄を盗むという状態の人がいるのも事実です。 しかし、お給料とは働く上で非常にデリケートな面でありだからこそ企業側も労働者に対してあまり強く出る事が出来ないのではないでしょうか? 労働者側は相談窓口などがよくありますが、人を雇い入れている企業側はそう言った窓口はまだ数が少ないと思います。 現代は労働者側の主張が優遇される時代です。 だからと言って企業側に不利益を与えてはならないはずです。 お仕事を頂けると言うことは本当にありがたい事です。 仕事があるからこそお給料を頂く事が出来るので労働者側はそれに見合った仕事を遂行しなければなりません。 私が禄を盗むという言葉の意味を初めて知った時はまだ社会人になりたての頃で今思うとまだなんの努力もしていないのに就職しただけで1人前になったと勘違いしていました。 頂くお給料に見合う仕事が出来るようになったのはきっと入社3年目頃です。 しかし下積みなくしては人は大きくなれません。 その為に研修中に頂いたお給料は企業側から従業員に対しての投資のような物だと私は思っています。

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六十の手習い

【漢字】六十の手習い 【読み】ろくじゅうのてならい 【意味】年を取ってから勉強や習い事を始める。 【例文1】70歳の母は六十の手習いのおかげで活き活きしている。 【例文2】独りになってボケないように六十の手習いを始める。 【例文3】六十の手習いに年は関係ない。 「六十の手習い」ということわざを、ご存知でしょうか。意味は、言葉のとおり「ある程度年を取ってから習い事をはじめる」ことを指した言葉です。おじいちゃん、おばあちゃんになってから、たとえばコーラスを始めたり、庭いじりや家庭菜園を始めたりといった、新しい趣味や習い事に取り組むのって、すごく素敵なことですよね。 実は最近、インターネットを見ていたときに、ものすごく驚いた「六十の手習い」があります。それは、なんとtwitter。60どころか70代後半のおばあちゃんが、スマートフォンを買って、さらにはtwitterを始めたというのです。 そのおばあちゃんが投稿する「つぶやき」は、誤変換・誤字のオンパレード。ですが、その投稿のなかでわたしが感動したのは、そのおばあちゃんには 20,000人以上のフォロワーがいるということ。そして、おばあちゃんがそれをとても喜んでいるということです。twitterに挑戦してよかった、らくらくホンではなくスマートフォンを選んでよかった。この年になってこんなにたくさんのお友だちができるなんて思わなかった。心温まる投稿に、いくつになっても挑戦する人でいたいなと思いました。 六十の手習いとは、六十歳になってから、初めて字を習うことを言います。それから、年を取ってから、習い事を始めることを言うようになりました。 半世紀以上も前には、六十歳と言えば、かなりの老人でした。ですから、そんな年になってから何かを習い始めると言うことは、ありないことだったのです。ですから、そんな年で習い事を始める人を、揶揄するような意味もあったのでしょう。 しかし、現代では六十歳はまだまだ現役です。仕事を続けている人も多いことでしょう。おなじような意味合いでいうなら、六十歳ではなく、七十歳ではないでしょうか。いや、もっと年長かもしれません。とにかく最近のご年配の方々は元気です。習い事はもちろん、スポーツや趣味にも手を広げます。 六十歳を過ぎた頃、いつものクロスカントリーコースで走り回っており、実年齢よりは若いつもりでおりました。そうした所、同じコースで走っていたのは八十八歳の方でした。そこのリーダーの方曰く、六十歳などまだまだ若者だそうです。その方は、六十の手習いよろしく、定年後クロスカントリースキーを始められたと言います。 六十の手習いから始まって生涯の趣味などを、持ち続けられることは幸せなことなのでしょう。 「六十の手習い」ということわざをご存知でしょうか。その言葉通り、六十の手習いとは年を取ってから習い事や学問を始めることです。勉強や習い事を始めるのに年齢制限などない。何かをスタートするのに年齢は関係なく、年を取ってからの挑戦でも遅すぎることはない、という意味がこめられています。とてもポジティブなことわざですね。同じ意味のことわざは海外にもあります。Never too old to learn.年を取りすぎて学べないということは決してない、という訳になります。同じ意味合いですね。 ことわざや言い伝えは古くから伝承されたきたもので、このことわざもそうではないかと推測されます。昔と今では平均寿命が全然違うので、昔の「六十歳」と今の「六十歳」は意味合いが違ってきますね。きっと老人の象徴としての「六十」の数字でしょうけれど、今の六十歳はまだまだお若く元気です。平均寿命までも20年以上残されているので、会社を定年退職した後になにか趣味を始めた、勉強を始めた、と話を聞いても遅すぎるとの印象は受けないでしょうね。そういう意味では、現代風に言い換えると「八十の手習い」などと言い換えたほうがしっくりくるかもしれませんね。

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ローマは一日にして成らず

【漢字】ローマは一日にして成らず 【読み】ろーまはいちにちにしてならず 【意味】大事業を成し遂げるには時間がかかるもの。 【例文1】ローマは一日にして成らずだから、将来のため経営の知識をしっかり身につけておく。 【例文2】ローマは一日にして成らずと言うから結婚資金を貯める。 【例文3】ローマは一日にして成らずでマイホーム資金を5年かけて貯めた。 引っ越してきてから一年、行こう行こうと思いながらも、なかなか一人の時間が出来ず。春から下の息子も幼稚園に行き始めたので、ようやく一人の時間は出来たんですが、それでもなかなか重い腰は上がらず、ようやく今日行って来る事が出来ました。 痛いと思っていたところは、やっぱり虫歯にもなっていたし、歯周病が進行してるということ。これは以前にかかっていた歯医者さんでも言われていたことなので、驚くことはなかったんですが、とにかくブラッシングが大切なんです。歯医者に行ったからといって、ローマは一日にしてならずで、歯周病はすぐによくなるわけではない。日々のブラッシングなどが毎日の予防につながっていくということで、ブラッシングの指導も受けました。 そして、今日は歯石をとってもらって、あとはキレイにブラッシングをしてもらいました。歯医者さんとの長い付き合いがスタートしそうです。歯の治療が一段落してから、歯の矯正のことも考えていきたいと思っているけれども、それがいつになるのやら。なかなか人気のある歯医者さんのようで、次の予約がまるまる1週間もあいてしまいました。この間にブラッシングを頑張るぞ。

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労を取る

【漢字】労を取る 【読み】ろうをとる 【意味】特別な人のためにわざわざ何かをすること。 【例文1】両親の金婚式のお祝いなので盛大に労を取る。 【例文2】独身の友人のために仲介の労を取る。 【例文3】営業成績トップの社員に労を取る。 労を取るという意味ですが、何かのことに対して骨を折って対応すること、取り繕うことを言います。 例えば、揉め事に対して仲裁したり、調整したりと、なかなか人がやりたがらないことに対しても、前向きに対応していくことです。 労働も年功序列型から、成果主義型の給与体系が多くなりましたが、このシステムが一番の元凶であると思います。 成果主義型は頑張れば頑張るほど、成果が出るほど、給与にも反映されていくのですが、このシステムは自分本位となる傾向があり、厄介なことに巻き込まれたくない風潮も強くなります、 従いまして、自ら揉め事に入り、労を取ることがいかに自分の給与や生活に影響するうえで無駄である考えが身についてしまった結果だと思います。 このような環境においては、人間味のある人物も減ってきていることも事実です。 欧米のような成果主義型の仕事のスタイルは、日本の文化には合わなかった気がしますし、労を取る人が少ない結果をもたらしてしまったと思います。 労を取るとは、相手のためを思い力を尽くすことを言います。前向きな言葉で暖かみのある意味に捉えることが多いです。一般的に好きな人や友達、家族や親戚など様々な人に対して労を取ることが多いです。仲介役として助ける時にも使われる言葉で誰かのためを思うが故の行動として表します。あれこれしてと頼まれたわけでもないのに自ら進んで労を取るなど、相手がいるからこそ起こせる行動で例文として、お母さんが忙しそうだからわたしが妹の世話をして労を取るなどです。大人のサラリーマンだと何かと付き合いも多く上司に飲みに付き合わされることも少なくありません。そんな時にも使える日常的な万能な言葉です。労とは苦労の労です。ですが労を取る行動は必ずしも苦しいということではなく、中には楽しい行動もたくさんあります。周りから見たらすごい、苦労している、尊敬するなど思われるかもしれませんが、本人はそこまでもありません。恩着せがましく見られることもありますが、自分の意思で動いている場合がほとんどです。そんな労を取るという言葉は素直でいい人、そして責任感のある人に似合う言葉で、人のためを思い行動するべき人に一番使われる言葉でもあります。 「労を取る」特定の相手のためにわざわざ何かをすること、骨を折ること、尽力することを指す言葉です。「〇〇の労を取る」や「〇〇する労を取る」の形で用いられます。「本日ご媒酌の労を取っていただく〇〇様です。」や「本日はご媒酌の労を取っていただきありがとうございます。」などは結婚式に出席したらよく聞きくフレーズです。これは相手に向けた使い方で相手が自分に対してしてくれた事への感謝を表す言葉です。「〇〇にお骨折りいただきありがとうございます。」や「〇〇にご尽力いただきありがとうございます。」も同じ意味で使われます。「〇〇の労を取らせていただきます」と自分向けて使うときは相手に対してへりくだった言い回しとして使われます。人のために何かをするとき自分をへりくだって言う言い回しはこの他に「犬馬の労」があります。犬や馬はよく主人に仕えることから自分をへりくだって言うときに使います。「犬馬の労を取る」「犬馬の労を厭わない」の形で用いられますが少々大げさな言い回しなので現在はあまり使われていません。また「労」とはつかれる・いたわる・ねぎらうという意味があり心や体を使ってそのことに努めることやそのための苦労・努力のことです。 

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労を多とする

【漢字】労を多とする 【読み】ろうをたとする 【意味】相手の働きに感謝の気持ちを表す言葉。 【例文1】自分が子育てをしてわかった。両親に労を多とする。 【例文2】社員に労を多とする。 【例文3】労を多として慰労会を開催する。 上司やお偉いさんに「御苦労」と言われるとそれなりに評価された気にもなれます。 「労を多とする」は仕事を評価しねぎらうの言葉です。 労働や苦労という言葉に使用されている労は「労う」と書いて「ねぎらう」なので、たくさんねぎらうよ~を偉そうに言ったのでしょう。 偉い人が偉そうに喋るのは、自身に威厳を持たせる常套手段で特に珍しくもないのですが、聞くものの心に届きにくい気がします。 素直に「よく頑張った。感動した」と言われた方が単純に気分が良いです。 もっともそれは十二分に権威があり飾り立てるなど不要な地位に上り詰めた者の余裕からくるのかも知れません。 会社や学校など組織の長が演説を一言二言の簡潔な文言にまとめて終了してしまったならばどうでしょう。 平の構成員は短時間で済むことを有難がるかもしれませんが、来客や組織幹部連中には手抜きをした印象を与えかねません。 それなりに熟慮し練り上げられた演説によって集会や催しを権威付けようとする意図が台無しになりかねません。 短い時間で感動的な話でもしてくれれば良いのでしょうが、そんな上手い演説はそう簡単に出来ません。

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労を惜しまない

【漢字】労を惜しまない 【読み】ろうをおしまない 【意味】苦労を嫌だと思わず、一生懸命になる。 【例文1】彼女は労を惜しまず勉強したから、首席で卒業した。 【例文2】家族のためなら労を惜しまない。 【例文3】レギュラーの座を勝ち取るため労を惜しまない。 今大学生で、高校からしていたスポーツでハンドボールをしています。高校の時に初心者だったので中学時代からハンドボールをしていた人には、技術のスタートが違いました。中学校からしていた経験者は初めから1軍に出ていたので羨ましいなと思って自分も負けないように頑張ろうと燃えました。 初心者だったので、人一倍の努力が必要だったので、毎日練習が終わった後も自主練で技術を磨いていました。自主練は他の人もしていたので家でも筋トレを欠かさず毎日しました。私の高校時代のハンドボール部の部員は50人くらいいて試合でコートに立つには相当の努力が必要だったからです。毎日コツコツしていった結果、私は、高校2年生から試合で出られるようになりました。大学になってもその努力したことは自分の糧になっていて、大学でもスタートメンバーとして出場しています。私は人と同じだけ努力をしても人を追い越すことは才能がない限り難しいと思います。だから、私はどんなにキツいことでも、人よりも2倍、3倍と労を惜しまないで努力をすることが大切だと思います。すぐには結果は出なくとも自ずと結果がついてきます。今、スポーツで悩んでいる方は人の倍、労を惜しまないという気持ちで自分に厳しくして努力しましょう。 見返りや将来性のないものをその行き止まりまで見に行くのか、それとも途中で見切りをつけるのか、或いは端からあきらめてスタートラインにさえ立たないのか。 多様な生き方が求められる現代において、導き出す選択は、どの道を進もうが戻ろうがすべて自己責任なのである。 人は誰だって好んで苦労はしたくないだろう。面倒なことほど避けて通りたいのが本音だ。 「労を惜しまない」というコトバがある。苦労することを厭わずに、熱心に取り組むこと。またはそのさま。という意味だ。 先ほども記したような現代の考え方には、もう、そぐわないのかもしれない。「そんな精神論、流行らないよ」「結果が全てさ」と、後ろ指をさされて嗤われるかもしれない。 しかし、そのような時代だからこそ、このマイノリティに押しやられた古くさいボロボロの解れかけたコトバが光り輝き、仕事やプライベートにおける様々な人間関係を、より充実させるための何かヒントになる、本質のようなものが隠されている気がしてならないのだ。 時には、思いやりや優しさのようなものであり、また、時には、熱意や情熱のようなものでもある。 これくらいでいいだろ?こんなものでいいだろ?そこに出来上がったのは、これくらいで、こんなものだ。 労を惜しまない、という「労」とは、今、この時代を生きる上でチャンスをつかむための、クオリティの高いコトバ・表現に思えるから不思議だ。

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隴を得て隴を望む

【漢字】隴を得て隴を望む 【読み】ろうをえてしょくをのぞむ 【意味】光武帝が中国の隴の地方を手に入れ、次は蜀まで攻めようとしたことから、望みが達成すると次の欲望が出る。 【例文1】あれもこれも欲しくて隴を得て蜀を望んではお金がいくらあっても足りない。 【例文2】モデルになると身なりや持ち物が隴を得て隴を望む。 【例文3】整形をしても隴を得て隴を望む。 隴を得て蜀を望むはひとつの望みを遂げると、更にその上を望み人の欲望には際限がないことをたとえています。隴(ろう)とは中国の甘粛(かんしゅく)省の地名で、蜀(しょく)は現在の四川省、成都付近の古称であり後漢の光武帝が隴を得て更に蜀までも取ろうと望んだ故事からや、曹操が司馬懿(しばい)に答えた言葉からきてるそうです。類義語には欲に底なし等で、この言葉は現代でも人間であるなら持ち合わせているものだと思います。物質に対しての欲望ならより高価で品質の高い物を求める気持ちに通じている気がします。 また物を得る事が望みならばバッグを手に入れたらばそれに見合う靴、帽子と思いつくと果てがなく、食べ物も次はあれが食べたいと欲望は溢れてきます。また節約思考に対してもより安さを目指し試行錯誤する、健康に関してなら体に良い食べ物に気を配ったり運動を取り入れたりしつつ求める体型や健康数値に対して努力します。欲に限りがないというのはその動機等が賢明であるならば向上心があると前向きに捉えられるとも思います。また望みがある事で努力する原動力にもなってると思うので、欲にまみれて見境が無くなってしまうのは考えものですが隴を得て蜀を望む事で人として成長していけるのなら良いなと思います。 隴を得て蜀を望むはひとつの望みを遂げると、更にその上を望み人の欲望には際限がないことをたとえています。隴(ろう)とは中国の甘粛(かんしゅく)省の地名で、蜀(しょく)は現在の四川省、成都付近の古称であり後漢の光武帝が隴を得て更に蜀までも取ろうと望んだ故事からや、曹操が司馬懿(しばい)に答えた言葉からきてるそうです。類義語には欲に底なし等で、この言葉は現代でも人間であるなら持ち合わせているものだと思います。物質に対しての欲望ならより高価で品質の高い物を求める気持ちに通じている気がします。また物を得る事が望みならばバッグを手に入れたらばそれに見合う靴、帽子と思いつくと果てがなく、食べ物も次はあれが食べたいと欲望は溢れてきます。また節約思考に対してもより安さを目指し試行錯誤する、健康に関してなら体に良い食べ物に気を配ったり運動を取り入れたりしつつ求める体型や健康数値に対して努力します。欲に限りがないというのはその動機等が賢明であるならば向上心があると前向きに捉えられるとも思います。また望みがある事で努力する原動力にもなってると思うので、欲にまみれて見境が無くなってしまうのは考えものですが隴を得て蜀を望む事で人として成長していけるのなら良いなと思います。

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老婆心

【漢字】老婆心 【読み】ろうばしん 【意味】親切心から必要以上に世話を焼く。老婆というが年長者(男女)が余計な世話ですが、、という意味も込められている。 【例文1】老婆心ながら言わせてもらうよ。 【例文2】老婆心ながら受けた忠告をとどめておく。 【例文3】あなたの事を想うあまり老婆心で言う。 若い人が初めて聞いたら「なんじゃそりゃ」かもしれませんが、実はこの言葉には日本人らしい「謙遜」や「親切心」がこもっているんです。 老婆心ながら、に続く先の会話はほとんどが「忠告」の時に使われます。また、年配や年上の人が年若い人に向けて「お節介をやく」時に使われる言葉でもあります。 ただ、決して強く相手を忠告し諭そうとして使う言葉ではなく、年配や経験豊富な人が年若く経験がまだ浅い人に対して、お節介かもしれないけれど、あなたのことが心配だから自分の経験をもとに意見をいいますね、という自分をへりくだった言い方なのです。 目上の人には使ってはいけない言葉なので注意してください。(目上の人の前で同じような意味で使う時には「せん越ながら」を使います) 年若い時期というのは、他人から注意されたり忠告されることに抵抗がある時期もあると思います。 反発したくなったり、大人の意見を聞き入れたくなかったり、素直になれない瞬間もあります。でも、この老婆心という言葉の中には年上や年配者が若者をいつくしみ心配するとても暖かい思いが込められています。なので、もし若い人が初めてこの言葉を耳にしたときには「自分のことを心配して言ってくれているんだな」と素直に受け止めて年長者を敬うようにしてほしいですね。

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老若男女

【漢字】老若男女 【読み】ろうにゃくなんにょ 【意味】幼児、若者、年配者、男女年齢に関係なくすべての人々。 【例文1】浜田省吾さんのライヴは孫世代まで老若男女のファンがいるからスゴイ! 【例文2】三世代の家族旅行は老若男女が楽しめる所に行く。 【例文3】老若男女がスマホを使いこなす。 「老若男女」は「ろうじゃくにゃんにょ」とか「ろうにゃくなんにょ」と読みます。文字通り「年寄りも若い物も男性も女性もすべて」という意味です。使い方は「老若男女を問わず」とか、「老若男女すべての方」と「とにかく全員」を指す時に使われているくらいですね。この言葉があるのは、普段は逆にそれを区分しているから必要なのだと言えます。もちろん区分してはいけないということではありませんが。中学校に入学して英語を習い始めた時、昔は「アイアムアボーイ」から習いましたが、今ではこのフレーズは死語です。同じように自己紹介場面で必ず「私は〇〇歳です」というのがありましたが、実際の英語圏では他人に年齢を尋ねることはしませんし、自分でも初めて会った人に自己紹介として年齢を打ち明けることはありません。このフレーズも今では習わないようです。欧米ではその人が何歳であるかこだわらないのです。日本が年齢にこだわるのは慣習でしょうね。子どもが生まれるとお七夜、七五三の祝い、昔なら男性は十五で元服の儀、女性は着袴の儀。と、とにかく子どもの成長を年齢別にお祝いする行事が多いのです。子どもの死亡率が高かったせいもあるとは思いますし、宗教の影響もあると思います。成人式で大人となってからも、厄年があり、というわけで日本人はかくも年齢を気にする人々なのです。だからこそ「老若男女」という言葉が死語になることなく使われているのでしょうね。 老若男女とは年齢や男女関係なくすべての人のことです。 現在では老若男女、問わず多くの方々がスマートフォンを利用しています。 ベビーカーに乗せられた赤ちゃんまでもがアニメの動画を食い入るように手に持っています。私は携帯を落とさないか心配でたまに目で追います。 2歳くらいになると写真を撮ることが出来るようです。小学生くらいになると自分で検索して好きなものを見ているようです。私は40歳でスマートフォンを持ちました。ガラケーでもよかったのですが、娘たちと家族で持つことによって大幅なキャッシュバック特典があるというので切り替えました。それからはスマートフォンのアプリで家計簿をつけたり、ネットショッピングを楽しんでいます。 私の母は75歳になりました。弟夫妻が定年で家にいる母のためにらくらくホンを買ってやってたまに私がラインや写真を送ってもすぐに電話が折り返しかかった来ます。いくら言ってもなれないようですが、ラインだけの打ち方は教えました。ボケ防止にもなりますからね。街の至る所でもスマートフォンは老若男女は手にしている光景を見ますね。 

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老骨に鞭打つ

【漢字】老骨に鞭打つ 【読み】ろうこつにむちうつ 【意味】自分自身が謙遜して言う場合にのみ使うべき言葉で、年老いて身体は衰えてきたが、何かをしようとする気持ち。 【例文1】定年後、老骨に鞭打って草野球のコーチを引き受ける。 【例文2】我が子達にはなるべく迷惑がかからないように老骨に鞭打って運動を続ける。 【例文3】長生きするため老骨に鞭打つ。 老骨に鞭打つとは、老齢だけれど気持ちを奮い立たせてがんばるという意味です。大体の人はみな老齢になるともう年だから無理とやりたいことを諦めてしまう傾向にあります。はたしてそうでしょうか?老齢になってから始めたことが、成功した方は周りにはいませんか。 インターネットで79歳の方が、宅地建物取引主任者の資格に合格されたことが紹介されていました。女性で最高齢の合格者です。宅地建物取引主任者というと、国家資格でかなり難しい資格です。合格しただけかと思いましたら、ご自身で不動産会社を開業しているそうです。またさらに驚きなのは、開業できるのは、今までキャリアがある方なのだろうと思っていましたが、79歳の年まで専業主婦だったそうです。すばらしいことですよね。 近年は、老齢でも職業に就いている方は多くなってきています。定年になって会社を離れたとしても、又新たな事を始める機会になったと捉えたら楽しいでしょう。 人は何かを始めようと思って、何かに取り組んでいくとワクワクしますよね。老齢だから諦めてしまってはもったいないです。

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労多くして功少なし

【漢字】労多くして功少なし 【読み】ろうおおくしてこうすくなし 【意味】苦労ばかり多くて効果がない。 【例文1】ご飯を減らして運動をしてダイエット中だが、労多くして功少なしでつらい。 【例文2】働いても働いても労多くして功少なし。 【例文3】労多くして功少なしでやる気が出ない。 私は、人生とは「労多くして功少なし 」と考えています。「労多くして功少なし」 この意味は、ある事に時間を費やして頑張ったのに、結果がついてこないこと。 「一攫千金」この言葉は、きっと「労多くして功少なし 」の反対に位置する言葉。この時代、あまり時間をかけずに成功をしてお金を稼ぐ人を見かけるようになりましたがまさにこの言葉がぴったりですね。考えてみてください。その方々を見て本当に「幸せ」そうに見えますか?中には、相当苦労された末で、勝ちえた人もいるでしょう。しかし、大半の方は、あまりの考えの浅さ故に「労」を知らずに一瞬の「成功」に溺れて失敗していく。そのように見えるのですがいかがでしょうか。 私は、どちらかというと失敗ばかりな人生です。目立って「成功」というものを勝ち取ったことはありません。しかし、失敗を繰り返す中で、功「成功」を勝ち取った方達より、労「時間を費やして頑張る」過程を楽しいものと思えるようになったと思います。失敗してもいいじゃないか。何事も過程だ。そう思えるようになったのです。 いつか、その過程を積み重ねることによって本来の「功」、人生の「功」が見つけることができるかもしれませんね。

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