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手作り言葉辞典について

手作り言葉辞典では、ユーザーが疑問に思って検索してきそうな言葉の を載せています。 検索して調べてきそうな言葉とは、ここでは「ことわざ」「慣用句」「四字熟語」「故事成語」の4つになります。 それぞれの意味は下記の通りです。 古くから言い伝えられてきた、教訓または風刺の意味を含んだ短い言葉。生活体験から きた社会常識を示すものが多い。 二語以上の単語が結合して、それ全体である特定の意味を表すもの。 漢字4字で構成される熟語。 故事をもとにしてできた言葉。特に、中国の故事からできた語。 Powered by 手作り言葉辞典

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累卵の危うき

【漢字】累卵の危うき 【読み】るいらんのあやうき 【意味】積み上げた卵をたとえて深刻で不安定な危険状態であること。 【例文】激戦区で商売が累卵の危うきだ。 「累卵の危うき」とは読んで字のごとく、卵を積み上げたような不安定で危険な状態のことを言います。日常生活でも、まさに「累卵の危うき」といえるような光景がたくさん見られます。まず私たちの暮らすこの国自体が、まさにブラック企業で働く人々、違法な条件で働かされる海外から来た人々、お金も働く場所も子供を預ける場所もなく必死で子育てをする若い世代、世間から白い目で見られる障碍者や弱い立場の人々、さまざまな犠牲の上に成り立っているのです。人々は安い賃金で働き、そして食料品や生活用品、雑貨やサービスなどはどんどん安くなり、結果的には自分の首を絞めているのを知っていりながらも、安さを求めるしかないのです。この丸い卵を積み上げたような不安定な世の中で、もっとも損をしている人々は、自分が損をしていることも知らず、また知っていてもどうすることもできないのです。そのような人々は、今日明日の自分の生活で精いっぱいだからです。特に若い世代は、人口が少ないので選挙に行っても国のありかたを変えることができないと気づいています。そして、あと数年でこの世を去るような老人のために年金や保険料を払い、自分が歳をとったときや障碍者になったときに貰える保証もありません。いっそこんな不安定な卵の山は、早く崩れてしまったらいいと思うひとも多いと思われます。

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瑠璃も玻璃も照らせば光る

【漢字】瑠璃も玻璃も照らせば光る 【読み】るりもはりもてらせばひかる 【意味】才能がある人は、どこにいても目立つものである。またそのような人は機会を与えられれば、すぐに能力が発揮する。 【例文1】瑠璃も玻璃も照らせば光るものだから、人並み外れた暗記力を持つ彼女はいずれ大物になるだろう。 【例文2】アドリブ対応が瑠璃も玻璃も照らせば光る。 【例文3】何でも器用にこなし、瑠璃も玻璃も照らせば光る。 七宝(しっぽう)というのは、仏教からきた言葉で7種類の宝だそうです。そんな有難い宝ですから日本でもあらゆる地名や七宝焼のような工芸品にも使われています。 7つの宝の種類は金・銀・瑠璃・玻璃・瑪瑙(めのう)・シャコ(貝の名)・赤珠(珊瑚)のことを指しているというのが、無量寿経という経典に書かれているそうです。 オリンピックの金銀(銅はわからないが)はここからきたのでしょうか?仏教用語なのであまりオリンピックと関係ないかもしれませんが、世界的にも金銀は貴重な金属という事は共通しています。瑠璃色というのは青(紫帯びた濃い青)、英語ではウルトラマリンブルーらしいです。玻璃というのは水晶のこと、そして硝子もこの言葉を使われるようになったのは水晶のように透き通って昔は貴重品だった為にこう呼ばれていたと思います。この2つの瑠璃・玻璃を使って「瑠璃も玻璃も照らせば光る」ということわざがあります。意味は、どちらも照らせば光ることから優れた才能を持った人はすぐわかる、または大成したり才能を開花させるという事です。 ところで、七宝には序列があるんでしょうか?照らせばという付帯状況があるから金銀には落ちるのかなと考えたのですが、玉石混淆という言葉もあります。平凡なものと優れたものを見分けるには光が必要なんですね。 「瑠璃も玻璃も照らせば光る」とは、「優れた者は、どこにいても目立つ」という意味です。江戸いろはがるたの中にも入っています。瑠璃とは青い色の宝石、玻璃は水晶のこと。たとえ石ころの中に混じっていても、どちらも、光を当てると美しく輝きます。人間も、そのように、素質のある者は目立つというのです。 現在は、インターネットの発達により、才能のある人はその才能を開花させる方法を見つけることができます。たとえば文章・絵・イラスト・漫画などが上手ければ、ブログやツイッターなどで発表することで、それが多くの人の目にふれ、やがてはメディアに取り上げられることにもなります。努力次第ではプロになる道も開けます。自ら光を当てて、自分を光らせることができるのです。 しかし、インターネットが発達する前は、たとえ才能があっても、それを活かす方法は限られていました。せいぜい雑誌や新聞に投稿したり、出版社が公募する新人賞に応募する程度の手段しかありませんでした。新聞などに掲載されても、周囲の人たちが褒めてくれるだけで、結局は自己満足にしかなりません。新人賞などに入選できる人は、ほんの一握り。やがて、才能ある人も、「本当は自分には、才能なんてないんじゃないか」と自分を見限ってしまいます。その結果は、「玉石混淆」です。石ころのなかに宝石も混じっている状態になります。時間の経過とともに、宝石はホコリをかぶって、輝きもくすんできます。昔はそんな人が多かったはずです。 でも、今は違います。たとえどんな田舎にいても、自分でその才能を発揮することができるのです。ここでの「才能」は、努力する力と方法を見つける才覚も含まれていることはいうまでもありません。そうです、何らかの方法があるのです。それを見つけて持続的に利用することができるかどうか、で道が分かれます。 私は、今、呼びかけたい。瑠璃よ、玻璃よ。自らに光を当てよ。自らを輝かせよ、と。

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ルビコン川を渡る

【漢字】ルビコン川を渡る 【読み】るびこんがわをわたる 【意味】ルビコン川とは、当時ガリア(現フランス)とイタリアとの境をなした川で、軍隊を連れて入ってはいけないことになっており、違反すると処罰された。しかしユリウス・カエサルはガリアから軍隊を引き連れてローマに迫り、ローマ側の軍隊と戦って勝利し、政権を手に入れたことから、一世一代の勝負をすることをいう。 【例文1】転職してルビコン川を渡る。 【例文2】ルビコン川を渡る想いで彼女に告白する。 【例文3】今夜ルビコン川を渡る覚悟で彼女にプロポーズをする。 人生の方向性を決める重要な局面で、一度実行すれば元の状態には決して戻れない重大な決心をすること。それが「ルビコン川を渡る」という言葉の意味と言って間違いはないでしょう。 我々の日常生活でしばしば強いられるような、小さな決断に際して使われる慣用句ではありません。カエサルは、元老院との対立を決意してルビコンを渡りました。彼の本当の試練はルビコンの先から始まるのです。 現在の自分自身を強く否定する反抗の心がある人でなければ、今よりも辛い人生を歩む覚悟など、決められるはずもありません。 ルビコン川とは渡ることよりも、むしろ渡ったあとに重要な意味が付加されるように思います。以前の境遇から遮断されていることを突きつける境界線として、ルビコンは永劫に流れる存在なのでしょう。 興味深いのは、ルビコンが、渡った人にはいつまでも明確な境界として確認できるものであるのに対し、渡らなかった人に対しては、永久にその姿を見せなくなることです。背を向けたあとでもう一度ルビコン川に引き返して渡ろうとしても、二度と見つかることはありません。 今の私の前にルビコンが現れるためには、日常に何かしらの不満を抱かなければならず、そして現れたルビコンの向こう岸にも、また更なる試練が待ち受けています。渡るも苦しみ、渡らぬも苦しみ。違いは、未知の地に行くか、既知の地に留まるか、という点であり、それが後者の選択率の高さの理由であり、ルビコンを渡ったカエサルが崇拝される由縁でもあります。

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坩堝と化す

【漢字】坩堝と化す 【読み】るつぼとかす 【意味】坩堝とは耐熱容器のことで、熱く興奮した雰囲気をいう。 【例文1】会場は熱狂的なファンで坩堝と化す。 【例文2】日本代表の試合会場はサポーターが坩堝と化す。 【例文3】ライヴ会場が一体感となって坩堝と化す。 坩堝と化すとは熱く盛り上がっている様子を言います。 いいですねー。サッカーや野球の試合会場が一丸となって応援している光景をテレビで見るとこちらまで熱くなって応援します。 私も一度J2の試合を観戦した事があります。サッカーには興味なかったのですが、無料でもらったチケットがあるからと私と小学生の息子を誘ってくれたのです。正直サッカーは、私が好きなバレーボールとは違いなかなか点が入らないことが多いのでところどころ見ているという感じでテレビで見ていました。 実際に応援席で観戦していると、選手たちのがんばっている姿を目の前で見て感動して次第に立ち上がって応援していました。PKはハラハラドキドキして手に汗を握る想いで祈ってましたね。結果は忘れてしまったけど、両チーム本当に全力で走っている姿だけは忘れていません。息子も興奮して中学に入ったらサッカー部に入ると言って2年半準レギュラーで頑張りました。

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塁を摩する

【漢字】塁を摩する 【読み】るいをまする 【意味】スキルや地位がほとんど同じ程度に達する。 【例文1】師匠と同じくらいに塁を摩する。 【例文2】教師よりも彼女の教え方の方が塁を摩している。 【例文3】塁を摩するまで20年かかった。 塁を摩す(るいをます)は、大家や名人、師など、元は自分よりも技量や地位が上にいた人物に近づいたことを意味する故事成語です。 距離的にではなく、自身の技量や地位が上がり、肩を並べた(並べるほど近づいた)ことを意味します。 例=師匠の塁を摩するほど腕前を上げる 元は、敵陣に迫るという意味で、敵の塁(砦)をこするまでに近づき、攻め寄ることです。 由来は、「春秋左氏伝」の中の「宣公十二年」に書かれた「御(ぎょ)は旌(はた)を靡(なび)かし塁を摩して還る」です。 「春秋左氏伝」は、左伝・左氏伝・春秋左伝などと呼ばれることが多く、紀元前722年~紀元前468年頃までの歴史的記事と説話や逸話などが記されている書物です。作者は魯の左丘明とされています。 「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」と合わせ「春秋三伝」とも呼ばれ、孔子の編さんした歴史書「春秋」の注釈書として広く知られています。 ちなみに、塁とは「壘」の略体で、「?」は物が積み上がった状態を表すことから、土が積みあがった様子を表現します。そこから、塁は土や石を積み重ねて作った防御用の土手や砦、小城を意味するようになりました。 類語には、牙城に迫る・肉迫・肉薄・企及・しのぎを削る、があります。

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累を及ぼす

【漢字】累を及ぼす 【読み】るいをおよぼす 【意味】他人まで巻き込んで迷惑をかける。 【例文1】遅刻してチームメイトに累を及ぼす。 【例文2】飲食店で大声で怒鳴るのは他のお客にまで累を及ぼす。 【例文3】発注ミスで累を及ぼす。 組織に属して仕事をしていると、さまざまな人間と出会うことになります。年齢もさまざまで経歴も多種多様、そんな人たちがある目的に沿って一緒に共同作業を行なっていく。それが仕事なのですが、多数の人たちとやりとりをしていると必ずと言っていいほどに有能ではない問題がある人間と出会います。上司など上の立場になると、こういう問題がある人間をいかに使っていくかということが問われてきます。 若い頃は側から見ていて大変そうだなと他人事のように思っていました。ですが私も年齢を重ねてきて、少しずつ上の立場になってくると、自分の身に責任が降りかかってきます。自分の手が及んでいないところでミスをされても責任者として問題を問われなければなりません。私自身がまわりに迷惑をかけることもありますが、部下たちのミスをかぶる方がはるかに多いのが実態です。こういうことわざは「累を及ぼす」と言うようです。意味は「巻き添えにして迷惑を及ぼすこと」、私の立場の場合は「累を及ばされる」が正解でしょうか。 しかし考えてみれば、組織として仕事をしていく以上お互いに必ず「累を及ぼし」ながら仕事をこなしていくものなのかもしれない、と上司になって思うようになりました。

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類は友を呼ぶ

【漢字】類は友を呼ぶ 【読み】るいはともをよぶ 【意味】気の合った者、同じレベルのもの同士は自然と集まって仲間を作るもの。 【例文1】類は友を呼んで同じ趣味を持つ。 【例文2】深夜たむろしている若者が類は友を呼ぶ。 【例文3】類は友を呼ぶだから共感する部分が多い。 同じ趣味を持った人たちのサークルなどで同じ考え方の人に出会うととてもうれしくなってしまいます。そういうのを「類は友を呼ぶ」と言うのだと思っていましたが、最近、悪い事でも使われれていることを知りました。 「朱に交われば赤くなる」とよく似た意味で使われていたのです。古い言い方ですが不良と言われるような少年少女、現在風に言えば非行少年、あるいは少女の集まるところに、我が子が仲間に入っていたりすると親はとてもショックを受けるようです。「私の子どもに限って」と思うのは当然の親心です。そして、「朱に交われば赤くなる」というから付き合ってはいけない、ということになるのでしょう。 同じような意味で使っているようですが、「類は友を呼ぶ」のほうは微妙に違うことに気が付きました。 「類は友を呼ぶ」のほうは、第三者が知り合いの子どもが悪いことに手を染めたりすると使うようです。少し冷たい言い方で。その使い方が正しいかどうかはよくわかりませんが、ことわざの中にはとらえ方が変わってくるものもあるようです。 「類は友を呼ぶ」とは、人の周囲には自然と同じような性格だったり、同じようなことを行なっている人が集まり、友人になっていくという意味です。同じような性格であったり、同じようなことをしている人同士は話が合うので、自然と集まるということですね。例としては、「あの人は人格者だけれど、周囲にいる友人もみんな良い人達ばかりで、類は友を呼ぶとはまさしくこのことだね。」といったように使います。また、そこから派生して、その人が本当にどういう人か大まかに知るには友人を見るといい、といった意味で使われることもあります。例えば、「あの人が本を読んでいる姿を見たことはないけど、周囲の友人は皆本を読んでいるところをよく見る。類は友を呼ぶと言うし、もしかしてあの人も外で読まないだけで、本を読むのが好きなのかもしれない」といった具合です。また、類は友を呼ぶという言葉から、自分を変えたい時はまずは付き合う人を変えてみる、といった方向で使われることもあります。「あの人が私の友達なんて畏れ多いけど、類は友を呼ぶと言うし、仲良くしているうちに私も友達として相応しくなれるかもしれない」といったように、自身の向上を目指すために、まずは付き合う相手を変えてみるのも手かもしれませんね。 類は友を呼ぶの意味は、気の合った者や似通った者は自然に寄り集まるという意味です。 確かに価値観や趣味、嗜好が似ていると共感できて距離も近く感じ仲良くなりやすいです。また育った環境や出身地が似ていても親近感を持ちます。 自分自身を客観的に知るには自分の友達を見ることが一番分かりやすいということです。友達のどこに共感を持てたか、何で気が合うのかを分析していると自分の価値観がよく分かってきます。 また友達の嫌な面を垣間見てしまう時、自分自身も他人から同じように思われている可能性があるということです。友達の欠点を見て自分の欠点に気付き治していくことでより自分を向上することができます。 この法則をあてはめると、悪友ばかりしかいないと言っている人は自分自身も同じ類ということです。人に恵まれないと嘆くだけでなく、友達の欠点を自分に照らし合わせて反省する必要があります。そうして自分が向上すると、もっと他に気の合う友達ができます。そして自然に悪友とは疎遠になっていきます。悪友も向上した自分に対して同じ類ではなくなるので、共感できずつまらなく感じるようになり次第に離れるでしょう。 自分自身と向き合うには自分の身の回りの友達を分析してみると手っ取り早いということです。

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涙腺が緩む

【漢字】涙腺が緩む 【読み】るいせんがゆるむ 【意味】涙もろくなる。 【例文1】厳格な父が結婚式の時だけ涙腺が緩む。 【例文2】我が子の成人式姿に涙腺が緩む。 【例文3】年を取ると涙腺が緩む。 思わず涙がこぼれてしまったりする場合には「涙腺が緩む」という言葉が使われたりします。 とはいえ涙腺を意識的に閉めるようなことはもちろんできません。 涙腺が詰まってしまう「涙道閉塞」や、逆に涙が止まらなくなってしまう「涙流症」などという症状は存在しますが、そのような病的な症状以外でも、歳を重ねることで涙腺が緩む、つまり涙もろくなってしまうことはあるようです。 これには長い年月を生きたことによる経験が関係しているのではないかと言われています。 経験を重ねることにより、共感できることが増えていくのです。 「感動」は心が動くと書きます。 この心を動かすためには「共感」が重要なポイントになるのではと考えます。 例えば甲子園を見ていて涙する若い人は、自分も野球部で甲子園を目指した経験があることで共感したり、そうでなくとも部活動を頑張ったことで共感するのだと思います。 しかしある程度の歳をとった方であると自分の若い頃の経験だけでなく、息子がいる場合には息子を見る親の目線で共感したりと、人生でさまざまなことを経験していくことで共感するポイントが増えていくのだと思います。 歳をとることで共感のポイントが増え、共感が感動を呼び、その結果若い頃は泣かないような人でも涙腺が緩んでしまうということは、むしろ自然なことだと言えそうです。 若い時は自分のことで精一杯で自分のことを本当の意味で振り返る機会というのは実は非常に少ない気がします。しかし、歳を重ねるにつれ、独り身であったものが結婚し伴侶と共に時間を過ごし、子供が産まれ家庭をもち、そしてその子供たちが巣立っていくという一連の過程を経験してきた大人になった自分をふと振り返ったとき、以前と比較すると何とも複雑な感情が入り混じった人間に成長してしまったということに気付くときがくることでしょう。 このような”自分だけでなく他者と密接に交わりあいながら得た経験”があるがゆえ、大人になればなるほど様々な場面で涙腺が緩みやすくなるのでしょう。人生の過程で幸も不幸もいっぱい経験してきたからこその結果です。若い時は自分中心であるがゆえ、他者への思いやりや経験がどうしても不足してしまいがちです。これが大人に成長し、まるい人格に形成された人へと移り変わった時点で感謝・労い・寛容の幅が大きくなるため、同時に感受性も増し、様々なことに感動・感謝し、涙腺も緩みやすくなるのです。 つまり、涙腺が緩むという時期が来たとすると、それはあなた自身が大きく成長した証と言えるのではないでしょうか。大いに喜ばしいことなのです。

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